「どげんしたら自分の描いた絵が、人の目に触れるか。 なら、ポスターで1等賞とったらよかろうもん」

-ニシジマ図案社開業~観光ポスターに全力投球時代-
[昭和22(1947)年~昭和50(1975)年]

<1部:フリーデザイナーとして独立~「宝くじ」ポスターで特待賞受賞>
「子どもの頃から目立ちたがり屋だった父が、映画の看板の次に出合ったのが観光ポスターだったとです」と、雅幸さんは、尊父、西島伊三雄が20代後半~40代前半に観光ポスターコンクールで数々の賞を取り続けて、全国にその名を轟かせた“観光ポスター全力投球時代”について語り始めた。

昭和21(1946)年7月に復員して、やがて朝日広告社に復職できたが、夜は遅くまで家業の「二○加屋旅館」(住吉)を手伝う日々が続くようになった。そこで翌年の7月、西島伊三雄24歳の時、「二○加屋旅館」の1室を仕事場にして「ニシジマ図案社」を開業。今で言う、“フリーデザイナー”として独立し、本格的に図案の仕事に専念できるようになったのである。

7-1復員後の自宅の裏の畑で。妹、弟と。

西島伊三雄と観光ポスターの最初の出合いは、昭和23(1948)年に旧国鉄門司鉄道管理局(通称“門鉄”)が初公募した観光ポスターコンクールだった。独立間もない無名のデザイナーとって、ポスターコンクールに応募することは最高の勉強であり、日頃の仕事への励みにもなったし、また絶好の登竜門となった。とにかく、絵を描くことが大好きだった子どもの頃から、自分が描いた絵をたくさんの人に見てもらえることを望んでいた西島伊三雄は、その思いを遂げるべく、「よし、これから観光ポスターたい」と、この観光ポスターコンクールに全力を注ぎ込むことになった。

「父は、今では童画作家と思われてますが、元々、ポスターをやりたかったとですよ。自分が作ったポスターが駅に貼り出されることを一番望んどったというか、そうなることを目指しとったとですから。昔は、博多から旅行に出かける時は、必ず博多駅から汽車に乗り、また博多駅に帰って来た。まだ飛行機やら乗る人がおらんやった時代ですからね。いつも、どうやったら博多駅にポスターを貼ってもらえるかを考えよった男ですから(笑)。『どげんしたら自分の描いた絵が、たくさんの人の目に触れるか・・・。なら、ポスターで1等賞とったらよかろうもん』と言いよったですから(笑)、少しは自信もあったとでしょうね。それで、観光ポスターコンクールにもの凄く力を入れたとですよ」と雅幸さんの語りにも熱が籠って来る。

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二科会特待賞受賞作品「宝くじ」(昭和26年作・28歳)

ポスターコンクールに応募を続けていた西島伊三雄が最初に“1等賞”を取ったのが、昭和26(1951)に二科会商業美術部が新設された時に出品した「宝くじ」のポスターだった。その年、“二科会の天皇“と言われた東郷青児さんが、九州のデザイナーたちに二科会への入会を勧めるため福岡に来られ、西島伊三雄に続いて、大部分のデザイナーが二科会に入会した。この“東郷青児来福”は、西島にとってまさしく運命的な出会いとなったのである。キャッチコピーも自分で考えたこの作品は、「特待賞」を受賞し、中央のデザイン界に“九州に西島伊三雄あり”と一躍その名を馳せることになった。独立して4年、28歳の快挙である。作品は、二科展会場の東京・上野美術館に展示され、西島も晴れがましい気持で上京し、表彰式に出席した。賞金は3万円と高額だった。当時まだ1万円札は発行されていなかったので、百円札で300枚、現金で渡された時はさすがに驚いたという。※昭和26年頃の公務員の初任給は5,500円~6,000円。聖徳太子の肖像が描かれた最初の1万円札が発行されたのは、昭和33(1958)年12月1日だった。

それからの西島伊三雄は、博多祗園山笠の“山笠(やま)のぼせ“に負けんぐらいの“二科展のぼせ”になったが、二科会でもめきめきと頭角を現し、5年後の昭和30(1955)年には二科会商業美術部の審査員となった。その二科会から、さらに「日宣美」(日本宣伝美術会、昭和26年発足)へと西島伊三雄の躍進は続くのだが、「二科会~日宣美へ」については別の章で述べたいと思う。
*参考資料:「西島伊三雄画文集  すんまっせん」(発行:西島伊三雄童画集刊行会    平成5年刊行)

<2部:世界と日本で観光ポスターコンクール最優秀賞受賞>
昭和23年に始まった“門鉄”の観光ポスターコンクールは、西島伊三雄にとっては記念すべき年となった昭和26年から全日本観光連盟本部が主催することになり、実際に印刷して使用されたポスターを競うようになった。観光ポスターは全国が舞台になる。地方のデザイナーにとっては全国的に脚光を浴びる絶好のチャンスとなるため、西島はますます観光ポスターにのめり込んでいった。

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制作に打ち込んだ頃(昭和28年・30歳)

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演劇のポスター(昭和28年作・30歳)

西島伊三雄は36歳の時、更なる飛躍を目指して二科会を脱退し、翌年昭和35(1960)年に日宣美の会員となった。この年、アルゼンチンで開催された世界観光ポスターコンクールで、佐賀県唐津市(門鉄)の観光ポスター「玄海国定公園
からつ」が最優秀賞を受賞する。唐津の虹の松原と地引き網を引く漁師たちを描いた木版画調の作品は、日本の美のイメージをシンプルに構成したインパクトのあるデザインだった。

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九州を1本にまとめた観光ポスター(昭和30年作・32歳)

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世界観光ポスターコンクール最優秀賞受賞作品「玄海国定公園   からつ」(昭和34年作・36歳)

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第1回全日本観光ポスター展最優秀賞受賞作品「明るい南の国   九州」(運輸大臣賞)(昭和36年作・38歳)

続いて翌昭和36(1961)年には、桜島大根を頭に乗せて運ぶ農婦の写真を使った観光ポスター「明るい南のくに  九州」で、第1回全日本観光ポスターコンクール最優秀賞(運輸大臣賞)を受賞した。これ以降、西島伊三雄の九州各県の観光をテーマにしたポスター制作は昭和50(1975)年頃まで、ほぼ毎年、全日本観光ポスターコンクールの金賞、銀賞、国鉄総裁賞、運輸大臣賞など、上位の賞を受賞し続けたのである。

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全日本観光ポスター展最優秀賞作品「かごしま」(昭和40年作・42歳)

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全日本観光ポスター展金賞作品「火のくに   九州」(昭和43年作・45歳)

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福岡広告協会賞作品「はかた」(昭和45年作・47歳)

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全日本観光ポスター展国鉄総裁賞・福岡広告協会賞作品「太陽とみどりのくに九州   ふくおか」(昭和46年作・48歳)

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全日本観光ポスター展銀賞作品「奄美」(昭和50年作・52歳)

観光ポスター制作全盛時代の西島伊三雄の仕事振りの一端を、一緒に全国を歩いた雅幸さんは次のように語った。
「昭和40年前後からでしょうか、ポスターの仕事で、宮崎、鹿児島、長崎、別府やら、九州のあっちこっちに行きました。和歌山県の観光課から電話があったときはびっくりしました。滋賀県、山梨県にも行きました。箱根観光シリーズポスター、南紀観光シリーズポスターやら、その頃はほんと忙しかったですねー。もちろん、私もついて行きよりました(笑)。面白かったのは、昭和44(1969)年、和歌山のポスター(くじら博物館オープン記念ポスターコンペ)を作った時でしたね。父が『和歌山て、何が有名や』て聞くもんですから、和歌山というたら昔はクジラやろばってん、今は・・・今でもクジラのベーコンは結構有名やけど(笑)・・て私が言うたら、『ふーん、クジラねー・・』とちょっと頭をひねりよったですけど、『分かった』と言うが速いか、すぐにクジラをババーっとそれもでーっかく描いていくんです。で、最後に、クジラの上では芸者さんたちが踊りよるとですよ(笑)。

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和歌山県観光ポスター「黒潮おどる南紀   太地」

父は、アイデアが出てくるのも速かったですけど、絵が出来上がるスピードも超がつくぐらい速かった。誰も、とても適わんやったですね。その絵が出来上がると、『ちょっとお前、これば出しときやい。こりゃだめやろうけど・・』と父も余り期待しとらんやった風ですが、実は私も、内心、これはちょっと大胆過ぎるとじゃないかと心配しとった(笑)。ところが、何と、これが一発で通ったとですよ(笑)。観光課の人が、『この人は面白い。これから、この人に全部頼もう』という話になって。ほんと、あんときゃ面白かった。父の作品は、私もその頃のポスターが一番好きですね。アイデアもデザインも大胆で、余り“商業商業”しとらんやったですから。その頃父も、全国から仕事が来るようになって、『ポスターやりよって、よかったなあ』と、しみじみ喜んどったですねー。でも、あの頃は、全部コンペだったとですけど、よう取れよったとですよ。その代わり、超がつくぐらい忙しかったですけど(笑)」。

<3部:感動を与える西島伊三雄の観光ポスターの秘密>
絵を頼まれたら、どんなに遠くても自分がそこに出かけて行って、色や形やら大きさ、構造やら特徴やらを直接観察して、それがどう動くのか、どうしてそげんなっているのか、人がなぜそれを大切にしているのか、自分もそれを体験する、祭りなら参加するなど、すべてを自分が分かった上でないと描けん、その仕組みが自分で分かっとらんとに人に感動は与えられん、というのが西島伊三雄の仕事に対する一貫した姿勢だった。そのため、くまなく歩いた九州のみならず、全国の各県から観光ポスター制作の依頼があれば必ず自分の足で現地を歩いて、その土地の自然や季節、風景や風俗、民芸、民謡、特産物、郷土料理、そして人情など、常に本物に接して描いてきた。またそうすることが彼の心の喜びだった。だから、西島伊三雄が作るポスターは強いリアリティで迫ってきたのである。だから、今でも見る人に強い感動を与えるのである。

文:橋本明(コピーライター)
撮影:萩尾裕二(HAGIOGRAPH)