中山文孝を語りたいWebタイトル

1940年(昭15年)、当時の東京市では、日本の国威を内外に示すために大きな2大イベントが計画されていた。東京オリンピックと、日本万国博覧会である。残念ながら両催事とも諸事情で中止となり、幻の東京オリンピック、幻の日本万博と云われているが、この日本万国博覧会の全国公募ポスター展において、一等賞と三等賞のダブル受賞に見事輝いたのが、長崎在住でデザイン活動をしていた中山文孝(なかやま よしたか)さんである。

元々日本画画家を目指し、福田平八郎画伯や伊東深水画伯とも交流があった経歴を持つ中山文孝さん。全国でも最も早くデザインの活動を始められた、九州のデザイン界の草分け的存在のクリエーターです。

多くの作品を遺されていますが、それらの作品を管理されているお孫さんにあたる中山文夫さんのご協力を得ながら、その中山文孝さんの作品を紹介し、活動の足跡を辿ってみたいと思います。

 

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長崎江戸末期の屏風絵「長崎唐館交易図」を拝見すると、江戸から明治に至る大きなうねりは長崎を中心に回っていたことが分かる。

明治維新に身を捧げた幾多の志士たちが、この長崎で得た物はただ外来の異国文化だったわけではない。明治の国づくりの基礎柱の土台石の役割を果たしたのでないかと思われるほど、世界からのあらゆる近代文化がこの長崎を通して日本になだれ込んだ。

小説家にとっても明治維新は題材としても重要なテーマで、司馬遼太郎のみならず多くの作家がこの壮大な時代を描いている。

司馬遼太郎が「竜馬がゆく」の執筆取材で長崎を訪れたのは昭和30年代後半の頃だったと思われる。長崎諏訪神社を見下ろす高台に位置する「亀山社中」。この伊良林にある竜馬ゆかり地での取材の折りの、中山文孝氏との出会いのエピソードが、「竜馬がゆく」第四巻怒濤編のあとがきに記されている。

当時の取材に同行された長崎県立図書館の永島正一氏による取材行、「長崎新聞・郷土史散歩339号」によると、小説家松本清張氏との関わりを含め、すでに商業美術の分野で大家として確立しておられた中山氏の存在の大きさを感じることが出来る。

しかし、その中山文孝と云う人物、探れば探るほど不思議なベールに覆われている。

いつ絵の世界を志したのか?、京都画壇とどんなきっかけで関係が生まれたのか?、この膨大なスケッチの数々はどのような目的で描かれたのか?。

未だ十分な研究がなされていない、中山文孝というクリエーターの残された作品の数々から、美術からデザインへ昇華していく過程が浮き彫りになって来るのではないか?との思いで、長崎・九州から日本の頂点を極めた中山文孝の世界を辿ってみたいと思う。

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中山文孝のこと

祖父(素全)の画室は亀山社中跡の隣にありました。

「この隣家の中山画伯は長崎では大事にされている人で、お齢は八十ちかい。骨格がたくましく、道具だての堂々とした風貌で、声に魅力があった。わきの人にきくと、松本清張氏の若い頃の図案のお師匠さんだったという。」と司馬遼太郎は『竜馬がゆく=怒濤編』のあとがきに記している。

祖父母とは小学六年まで一緒に住んでいたが、画室に入った記憶はない。四歳のころ祖父が描きかけの画紙にいたずら書きをして、入室禁止になったと母から聞いた。

そのころの祖父の想い出といえば、小庭の草花や昆虫をスケッチしている姿や、猿の動作を描くため仏間で様々なポーズをさせられたこと、弟と近く近くの海で釣ってきたベラを天然色で描いてくれたことなどがある。

祖父の日記から、
「大正十四年五月三日、なた豆牡丹を小林観爾氏と共に写生した。写生により本描に到る道程及び表現化を窺うことを得て、大いに興趣を感じた。また、現下の画会の傾向を談じ、素全の今後の方針をも考えた、考えてくれた。」、
「大正十五年一月一日、福田平八郎氏の家で雀の写生をみた。腕の冴えが身体切らるる様に鋭くせまるものがあった。」
と日本画に傾注している様子が伺える。

扇子や団扇を専業とする中山美六堂の主人となって以降、四十六歳の時、国際産業観光博覧会の宣伝ポスター公募に初めて応募し、一等賞と佳作に入賞。進む道が定まったようである。

祖父は終生、長崎くんちの傘鉾を客観的正確に記録することをライフワークとしていたが適わなかった。

祖父が残した厖大な写生、模写、デッサンやポスターを世に紹介することを、私のライフワークと考えている。

              平成二十八年正月

                      中山文夫

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次回予告

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