「昔は、次郎丸にゃ、蛍が飛びよったと。

なら、いつか蛍が帰って来るごたあマークばつくりやい」

-福岡市営地下鉄各駅のシンボルマーク-
昭和56(1981)年〜平成17(2005)年ー

 

博多を誰よりも愛したグラフィックデザイナー 西島伊三雄は、繰り返し描いた博多の三大祭り「博多どんたく」(5月)、「博多祗園山笠」(7月)、「放生会」(9月)の作品でも親しみをもって広く知られているが、私たちにとってより身近な西島デザインといえば、日常的に見かける福岡市営地下鉄各駅のシンボルマークだろう。駅のあるまちや駅周辺の歴史、景勝、地名の由来、自然、動物などをモチーフに、西島伊三雄の童画の作風に連なる温かみのあるタッチで、分かりやすくデザインされていて、大人から子どもまで地下鉄の利用者にも好評である。

福岡市営地下鉄各駅のシンボルマーク制作は、昭和56(1981)年7月26日の1号線(室見〜天神、現空港線)開業に始まり、平成17(2005)年2月3日の3号線(七隈線)開業まで続いている。最後の七隈線も、西島伊三雄のデザインで制作が進行中であったが、残念にも平成13(2001)年9月30日に死去。その後、師であり父である西島伊三雄の意志を継いだ長男のグラフィックデザイナー 雅幸さんが、西島伊三雄が1号線の制作当時から抱いてきたシンボルマークに託す思いやコンセプトを引き継ぎ、まるで西島伊三雄の制作としか思えないデザインのシンボルマークを完成させた。

病気療養中の頃、ベッドの上の西島伊三雄と雅幸さんは、しばしば、地下鉄七隈線の駅のシンボルマークのデザインについて語り合った。

西島伊三雄は地下鉄1号線の各駅のシンボルマークを制作する時から、一貫して「みんながすぐに分かるような、そげなマークをつくらないかん」と言ってつくってきた。1号線、2号線は、その駅の周辺に、歴史やら景勝地やら、デザインに生かせる材料が豊富にある。ところが、すでに病院でデザインラフを描いていた七隈線の駅の周辺には、名のある歴史や景勝地やらが少ない。沿線は田んぼばっかりだった。逆に見れば、土地開発が進んでなかった分、福岡の西部地区は、まだ自然がいっぱい残っていたのである。

雅幸さんは、博多の歴史に詳しい武野要子先生(福岡大学教授)を訪ね話を聞いたが、戻った後で、「ここはやっぱ、自然路線でいかな仕方なかごたーね」と自分の意見を西島伊三雄にぶつけた。するとすぐ、結論が出た。

「そ−や。なら、自然路線で行きやい。但し、自然路線で行くのはよかばってん、お前、夢のある自然路線でいかないかんぜ」と強く念を押し、西島伊三雄はさらに次のように続けた。

 

生前の父西島伊三雄氏を語る西島雅幸氏

「例えば、『次郎丸駅』やったら、昔は、ここには蛍が飛びよったと。今は蛍は飛びよらんばってん、なら、いつかここに蛍が帰って来るごたーマークばつくりやい。終点の『橋本駅』やったらどげんや、もみじ八幡宮やろばってん、もみじが駅周辺にある訳じゃなか。なら将来、周辺にもみじをいっぱい植えてもらえるようなマークばつくりやい」と。雅幸さんが、西島伊三雄のアイデアと指示に沿ってデザインして提出したら、それで決まった。

『次郎丸駅』は、室見川上流で放流される蛍をイメージしたマークになり、『橋本駅』は、かつてこの地にあった紅葉八幡宮にちなみ、紅葉と飯盛山を組み合わせたマークになった。

七隈線開業後、駅周辺地区で不思議なことが起こっていた。蛍をシンボルマークにした『次郎丸駅』のある地区では、今はまだ蛍は飛んでいないが、「蛍何とか会」という組織ができて、地域を流れる室見川がきれいになった。紅葉の葉をシンボルマークにした『橋本駅』周辺では、紅葉の木がたくさん植樹されたという。地下鉄1号線、2号線の場合とは逆に、七隈線沿線では、各駅のシンボルマークにふさわしいまちづくりがその後進んでいた。

福岡市営地下鉄七隈線駅のシンボルマークは、生前、西島伊三雄が思い描いた通りの新しいまちづくりのきっかけになっていたのである。常々「デザインという仕事がいかに社会と直結しているか」を語っていた西島伊三雄が、このことを知ったならば、どんなに喜んだことだろう。

現在、福岡市営地下鉄駅の数は全35駅(空港線13駅、箱崎線6駅、七隈線16駅)。西島伊三雄がデザインしたシンボルマークが各駅を明るく照らし、今日も、それらの各駅にまつわる物語を温かく語りかけている。

文:橋本明(FUDAコピーライター)