「赤は傷薬の赤チンやろ、黄なはマラリアの薬キニーネばすり潰してくさ、緑はその辺の草の汁たい」
ービルマ・メルギー島にて終戦~ムドン収容所で描いた「ビルマスケッチ」ー
[昭和18(1943)年~昭和21(1946)年]
<1部:広島呉港から南方へ~終戦~収容所生活の中でスケッチ>
昭和18(1943)年12月、佐世保第一海兵団(海軍)に入団した西島伊三雄二等水兵は、約1週間後、広島の呉港から輸送船に乗り、南方の戦地へ送られることになった。具体的な行き先などは、戦時機密として兵隊には知らされなかった。輸送船は、実際には、台湾、フィリピン、ジャワ、セレベス島、シンガポールなどを経て、約3か月半かかって最後の目的地ビルマ(現ミャンマー)最南端のメルギー島に着いた。
西島伊三雄を乗せて広島・呉港を出港した輸送船の南方航路
約2年半に及ぶ軍隊生活は、現実とはとても思えないほどの厳し日々だったが、最後まで食事の用意や厠番の担当だった西島二等水兵は一度も戦闘することなく、昭和20(1945)年8月、このメルギー島で終戦を迎え、連合国側の英軍の捕虜となった。しばらく捕虜生活が続いていたが、昭和21(1945)年1月、メルギー島からマレー半島に渡り、約400Kmを行軍してビルマのムドン収容所まで移動。しかし、この移動が、本当に日本に帰れるものかどうかは誰にも分からなかった。
ムドン収容所までの長い行軍途中の野営のテント風景
日本人捕虜を監視する英軍の現地人グルカ兵は自動車で野営した
ムドンでの収容所生活の間に、マラリアに罹った西島水兵は病室での気休めに、メルギー島での日々を思い出して、現地の女性や人々の暮らし、風物、農村風景などをスケッチした。
しかし、実際は、「絵は描きたかばってん、肝心の描く道具がなかろうが。絵の具もなか、描く紙もなか」という状況だった。戦争は終ったばかりで、戦地に絵の道具やらあるはずもない。「炭だけは手に入った。輪郭の線は木炭やら切った木を焦がして描きよった。色付けは、赤は傷薬の赤チンやろ、黄なはマラリアの薬キニーネばすり潰してくさ、緑はその辺の草の汁たい」と、西島水兵は持ち前のアイデアを生かして身辺のものを何でも利用して描いた。紙が問題だったが、現地の住民や英軍の将校の似顔絵を描いてやったら、非常に喜んで、お礼代わりに紙を工面して持ってきてくれたそうだ。「父は、初対面の相手でも、その辺のコミュニケーションの取り方が生まれ付き上手かったですね」と雅幸さんは笑う。
木立の下で休む兵士たち
身近にある薬品や植物などを使って彩色された写実的なスケッチは、戦争が終わったとはいえ、まだ戦時下であったにもかかわらず、人物、風物が実に温かみのあるタッチで描かれている。西島伊三雄の人間を思いやる優しさ、目線の温かさから生まれたタッチだ。この時、西島伊三雄、23歳。トヨタ図案社で5年間の厳しい弟子修業を経て、朝日広告社で1年半の経験しかない図案職人とはとても思えない味わい深いそのスケッチ力は、現地の住民や英軍兵士、そして捕虜となった日本の兵士たちの戦争で疲弊した心を大いに癒したのであろう。
家族(母親、女の子、男の子)
ナタを持つ裸の男2人
木にもたれる男
闘鶏に興じる男
<2部:21年7月復員~『暮しの手帖』特集>
「父は、『初めは、ただ絵が描きたいだけやった。どうせ死ぬっちゃけん、絵を持って日本に帰ろうやら思うてもなかった。ばってん、日本に帰れるて分かったら、やっぱ持ち帰りとうなったやね』と言うてました」。しかし持ち帰るには、勇気とアイデアが要った。見つかったら必ず没収される。ようやく日本の内地へ送還の知らせが来たとき、西島伊三雄はリュックサックの底(背)を二重に縫い付けて、その中に絵を隠して乗船した。「父は、縫うことも器用やったですからねー(笑)」。
昭和21(1945)年7月、ムドン収容所近くのモールメン港から復員船に乗った西島伊三雄は、帰りは乗船後13日目に広島県大竹港に入港した。リュックサックの二重背の中のスケッチは、下船時のドサクサのお陰で何とか見つからずに検疫所を通過したが、皆と別れる時に、上司や同年兵から「記念に絵を分けてくれ」とせがまれ、何点か渡した。現在、雅幸さんの手許には50枚程のスケッチが残っている。西島伊三雄が収容所での病院暮らしのつれづれに気楽に描いたスケッチだったが、今となっては非常に貴重な作品となった。これが、あの悲惨なビルマ戦線の奇跡ともいえる、西島伊三雄の代表作となった「ビルマスケッチ」である。
現地の女性の顔
市街風景(2景)
無謀なインパール作戦などが語り継がれるビルマ戦線では、投入された日本の将兵303,501人のうち、戦没した者185,149人、帰還した者118,352人という記録がある。そのビルマ戦線から幸運にも帰還できた西島伊三雄は、「自分が生き残ったことに対して、亡くなった戦友たちにすまない」という強い思いから、戦争体験のことは家族にも話したがらなかった。「ビルマスケッチ」も、戦後長く人の目に触れることはなかった。終戦後の収容所生活の約1年間に描いたスケッチとはいえ、「多くさんの戦友が亡くなっとうとに、自分はこげな絵を描いたりしとった」という罪悪感が、どうしても西島の胸中から消え去ることがなかったからである。西島伊三雄はその思いを、「今、この平和な時代に生きていて、スケッチを見るとき、私にとって太平洋戦争とはいったい何であったのだろうかと考えます」と画文集『すんまっせん』に書いている。
ところが、ある思わぬ人の縁からこの「ビルマスケッチ」の運命が動き出した。昭和30(1955)年代の初め頃、当時の福岡相互銀行(旧福岡シティ銀行の前身、現西日本シティ銀行)の四島司社長に、秀巧社印刷の間茂樹社長が「すごい人がおる」と西島伊三雄を紹介した。四島司社長は、たちまち西島伊三雄の「泉のように湧き出る発想と、独創性に魅せられ」て、すぐに同行のポスター制作はすべて西島伊三雄に依頼するよう広報担当に命じた。その時、四島司社長は、西島がやっていた県内外の多くの銀行の仕事をすべて辞めさせて、西島を福岡相互銀行の専任顧問として大優遇で迎えたのである(以来、同行と西島伊三雄の関係は、平成13(2001)年に西島が亡くなるまで続くことになる)。それから7、8年後、西島伊三雄が還暦を迎えた昭和58(1983)年頃に同行のロビーで初めての「ビルマスケッチ展」を行い、街の話題となった。その5年後、昭和63(1988)年、岩田屋デパートでも「ビルマスケッチ展」を開催し、地元の各紙で大きく報道された。
ビルマスケッチが掲載された『暮らしの手帖』 1990年8・9月号表紙
実は昭和60(1985)年の春、西島伊三雄の“天才ぶり”と「ビルマスケッチ」の作品の素晴らしさに惚れ込んでいた当時同行の広報担当だった土居善胤さんが、本人には内緒で、当時の超有名雑誌『暮しの手帖』に狙いを定めて、同編集部に「ビルマスケッチ」や西島伊三雄の資料を一方的に送り付け、運命の紅い糸を動かしていた。「この人は天才だ」と思っていた土居さんは、西島と会う日は、「会うのが楽しみで、朝から、私の全細胞が開いてわくわくしていました」と語る。その土居さんがびっくりする大事件が起きた。資料を送りつけて間もなく、一面識もない『暮しの手帖』の宮岸毅編集長から「掲載しましょう」という電話が入ったのである。これは、まぎれもない大事件だった。そして平成2(1990)年、終戦から45年目の夏、雑誌『暮しの手帖』8・9月の終戦記念号で「ビルマスケッチ」が特集され、全国的に大きな反響を呼んだのである。同年8月、『暮しの手帖』掲載を記念して、福岡シティ銀行(現西日本シティ銀行)ロビーでも「ビルマスケッチ展」を開催し、またまた話題となった。こうして、戦場の奇跡「ビルマスケッチ」は西島伊三雄の代表作となったのである。
文:橋本明(コピーライター)
撮影:萩尾裕二(HAGIOGRAPH)
*参考資料:
「西島伊三雄画文集すんまっせん」(発行:西島伊三雄童画集刊行会 平成5年刊行)
「博多に強くなろうシリーズNo.78 博多が生んだ天才絵師西島伊三雄」(西日本シティ銀行 平成22年2月20日発行)
後に書籍化された画帖「緬甸(ビルマ)」