「鞍馬天狗やら丹下左膳やら、

こげな看板の絵が描けたら、よかろうねー」

ー15歳「トヨタ図案社」入門、図案修業時代~朝日広告社入社、海軍入隊ー
[昭和13(1938)年~昭和18(1943)年]

子どもの頃から絵を描くことが大好きで、将来は画家になりたいと夢見ていた西島伊三雄少年は、映画も好きで、学校を出たら、とりあえず映画館の“看板絵描き”になろうと思っていた。「この辺が後の、グラフィックデザイナー 西島伊三雄の原点じゃなかですかね」と令息で、同じくグラフィックデザイナーの雅幸さんは語る。映画のジャンルの中でも、特に時代劇のチャンバラの絵が好きだった伊三雄少年は、映画館の看板に描かれた鞍馬天狗とか丹下左膳の絵を見上げながら、「こげな看板の絵が描けたら、よかろうねー。と、じっと見上げとった」そうだ。

5-1西島4兄弟DSF7186西島4兄弟(左から弟四郎、伊三雄、次兄龍雄、長兄荒太郎)

映画館に登って、映画の看板の絵を描く姿を今ではほとんど見かけることはないが、映画の“看板絵描き“は、当時、時代の先端をゆく花形の仕事だった。娯楽といえば映画しかなかったその頃、映画の“看板絵描き”は周囲からも注目され、いわば、街のスターだった。伊三雄少年も、いつか自分が描いた看板の絵が映画館に架かって、みんなから「わー。よう描いちゃあーね」と褒められるのが夢だったのである。

5-2福岡男子高等小学校旧校舎DSF7189
伊三雄少年が通った福岡男子高等小学校旧校舎(天神町にあった)

昭和11(1936)年、御供所尋常小学校卒業。昭和13(1938)年4月、天神町にあった福岡男子高等小学校を卒業した翌日、15歳の伊三雄少年は、父親に連れられて福岡市浜口町の「トヨタ図案社」に入門。その日から住み込みで、朝は6時起床、毎日ほとんど夜業、休みは月に2日だけという、厳しい図案修業の徒弟生活の日々が続くことになった。

当時はデザイナーのことを、図案家、図案屋と呼んだ。今のグラフィックデザイナーのことである。アメリカの「デザイン」の考え方は、その頃はまだ日本に入ってきていなかった。

トヨタ図案社には、図案家の豊田好夫先生の他に、2人のお弟子さんがいた。雅幸さんも、「戦後のことですけど、私がもの心ついた頃、うちも『ニシジマ図案社』と言うとったですね。お弟子さんが3~4人おられました」と、「ニシジマ図案社」の看板を覚えている。

5-3トヨタ図案舎時代・レッテル各種DSF7192 (2) トヨタ図案舎制作のレッテル。
当時はレッテルなどの仕事が多かった

トヨタ図案社での仕事は、芝居のビラや広告のチラシ、その他、日本酒・醤油・缶詰・おたふく綿など、レッテルの仕事が多かった。もちろん写植などはまだなかった時代で、タイトルの大きい文字も小さい文字も、印刷物のように精巧に筆で描いていた。今でいうレタリングが上手くなければ、一流の図案家にはなれなかった。

トヨタ図案社での5年間の図案修業を無事に終えた西島伊三雄は、昭和17(1942)年に、新聞広告代理店の朝日広告社に入社。ようやく一人前の図案職人としての人生を歩み始めた。西島伊三雄は、得意の自由な発想を生かして図案家としての新しい飛躍を目指そうとしたが、その頃すでに世の中は閉塞的な状況にあった。その前年の昭和16(1941)年、日本は太平洋戦争に突入していたのである。「ゼイタクは敵だ」の標語や「鬼畜米英 撃ちてしやまん」などのポスターが街に貼られていた時代だった。

トヨタ図案社時代も後半から、戦争関連のポスターなどの仕事が増えていたが、「その当時は、仕事で描いたもんは、全部、軍隊や兵隊の検査があって、自由に好きな絵を描くことができんやった」と、雅幸さんは父の伊三雄から何度も聞かされた。そんな息苦しい仕事の環境にありながらも、伊三雄は図案職人を辞めて絵描き(画家)になる気持はなかった。「生来、サービス精神が旺盛だった父は、人が喜び感動する仕事の絵を描きたかった」(雅幸さん)のである。

5-4朝日広告社勤務時代・伊三雄20歳DSF7194
初めての会社勤務・広告代理店朝日広告社時代(前列右、20歳)

図案家としての将来を思い描いていた西島伊三雄にも、戦争の影が容赦なく取り付いて来た。20歳になって徴兵検査を受けた。「甲種合格」より下の「第二乙種」だったが、意外に早く“赤紙(召集令状)”が届き、伊三雄は昭和18(1943)年12月1日に、佐世保第一海兵団(海軍)に入団、最下級の二等水兵となった。西島伊三雄20歳、図案職人として出発したばかりの、その短い青春が終わった。

文:橋本明(コピーライター)
撮影:萩尾裕二(HAGIOGRAPH)

*参考資料:「西島伊三雄画文集 すんまっせん」(発行:西島伊三雄童画集刊行会 平成5年刊行)